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scrap’s blog

If you like water, you already like 72% of me.

≠優しい

よく優しいと言われる。
けれどそれは間違っている。

優しさは、それを投げかける相手のためにあるべきだ。
時には慰め、時には励まし、時には過激な言動をもってさえしても相手を想う。

けれど僕のそれは僕自身に向けられている。
一見優しい言葉に思えても、全ては脆弱な自分の心を守るためなんだ。

ただ、ここは現実との繋がりはない。
最悪、侵されることがあったとしても、いとも簡単に放棄できる。

そのぶん正直でいられるのかもしれない。
このブログで書くことのオブラートの量は、現実の100分の1くらいなはず。

 

脆弱な心と書いたが、具体的にはなんだろう。

それは恐怖だ。

相手を不要に傷つけてしまう恐怖。それに伴い関係を壊してしまう恐怖。嫌われる恐怖。

なぜそう感じるのか。
それはコミュニケーションの不足だ。

経験の不足なのか能力の不足なのかはわからない。
ただ現状では不足しているのは確かで、だからこそ相手と自分の距離がわからない。

キルゾーンは100歩先かもしれないし、踏み出す足が降りる、その一歩先がそうかもしれない。
目隠しで歩くような言いようのしれない不安がそこにはある。その状況で安全にいられるのは?そこに立ち尽くすことでしょう?

それはつまり、相手に一歩踏み込むことはないということ。
一見優しい言葉は、相手の心に近づきたくないからだ。

そう考えれば、言葉とは裏腹に行動が伴わないことに説明がつくでしょう。
例えば心配していても、言葉を伝えることはあっても様子を見に行くことはないんだ。

それは優しいとは言えない。断じて。

 

こんな人。
そう、こんな人なんて。最低だ。

当たり前に人はさっていく。
結果的に、一歩踏み込まれることへの怯えからも遠ざかる。

近づきたい誰かが去るのは、本当に辛いことなんだ。
失う痛みに耐えがたいなら、最初から得なければいい。

相手を傷つけることがない事実と、自分が傷つくことがない事実。
(距離を置くことで傷つく他人がいるかもしれないという反論はあるかもしれない。でもそれは、ある程度近づいた人が離れた場合でしょう?最初から近づかないんだ)

これらは安心という紛れもない利点であり、こうして僕の行動は強化されていく。

 

盲目の人も訓練すれば公道を歩いていける。
その人たちが安全な室内にこもらず外出するのは、それに強い必要と利点があるからだろう。

教えて欲しい。
人に近づくための行動方法ではなく、人に近づくより強い利点を。
傷つき傷つけられても構わないと思えるほどの動機を。

今すぐに理解できないかもしれないけど、この先心が理解する、その時のために。

 

備考

  • まず“最初の1人”を作らないといけない。踏み込み、安心して踏み込ませることができる人を。行動を等身大に評価してくれる人を。
  • 親は僕のそれではないらしい。子供のころ、親のキルゾーンがわからずこっぴどく絞られた(内容はご想像にお任せします)。以降、良い子供として振舞うことで距離を保つようになった。
  • ブログなど文字上のつながりだと、心に踏み込む心配が薄れる気がしている。正しくはないかもしれないけど、でも多くの場合そうでしょう?