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scrap’s blog

If you like water, you already like 72% of me.

父兄

小さい頃から断続的に嗜んでいた習い事があった。
それが縁で二十歳ちょい過ぎ辺りまで、スポーツ少年団で指導していた。
その時のお話。

ご父兄は熱心な人もいれば、不肖不肖という人もいる。
大多数は「子どもが望むからやらせるけど、基本的に内容に興味ない」という人たちだったと思う。

子どもたちがひたいに汗かいている間、そういうご父兄は固まって喋る喋る。
あまりに盛り上がりすぎて、やむなく指導者側からご遠慮願うことも度々あった。

 

子がメインのイベントや大人同士の親睦会などで、距離を縮める取り組みはあることにはあったが、そんなだからご父兄との溝もそれなりにあった。

我が子良ければ全て良し。
基本的に我関せず。
でも収穫物はちゃっかり獲得。
月謝払っているんだから当然でしょ?
ちょっと、座ってるとお尻冷えるんですけど。

いや、実際にいたんです。それなりの数。

 

当然のことながら苦情もそれなりに出る。

話し合いの場では「子どもの意図を汲んでやらせてるけど、本当はこんな乱暴なスポーツはさせたくない。いつ辞めさせたっていい。」が決まり文句。

子どもがやりたがっていることは、誰より指導者たる我々が痛感しているさ。

結局お定まりの「お子さんは頑張っている。続けさせてあげてください」と頭を下げることになるのを、彼らは知っているのでしょう。

 

いやいや、そういうご父兄ばかりだったわけではないですよ。
そういう人も一定数いたという話。

ただ、そういう「実は否定派」を主張している人たちも含めて、みんな黙った出来事があった。

 

スポーツの内容が格闘技なので型や演武の他に、当然乱取り(組手といったほうが伝わるのかな)もある。

やってもらうけど怪我があったら一大事(保険はあるけど)

子どもにはでっかいグローブと分厚いヘッドギア、ボフンボフンの胴を装着させてやってもらう。

だけど・・・普段練習している内容はどこへいったのか、そういう状況になると繰り出されるのは猫パンチなんですよ^^;

 

いや、これは普段の練習と実践とが紐づいていないのかもしれない。

そう考えた僕は計画を練り、その紐づいた実践を見せてみることにした。

相手は2コ下の弟。段位は弟が1つ上だ。

本来であれば心理的な駆け引きも含まれるのだが、睨み合いのこう着状態は理解できないだろう。
ということで、たったひとつだけ「基本全力でぶつかり合うという」という台本を用意した。

後に陸上自衛隊に入る弟。かたや貧弱な兄。

そう決まると圧倒的に分が悪い。必然的に僕は必死になる。

 

対峙する。

繰り出される拳、宙を翔ける脚、掴み掴まれれば関節技の攻防。
次第に感覚が研ぎ澄まされていくのがわかる。

ついさっき、際どい一撃をもらってしまった。

相手が構えを組み直す・・・間を見逃さず顔面を右足で蹴る。ヒット。
が、浅い。蹴った足でそのまま踏み込み、左右の拳で1撃ずつ追撃。
全てが早送りのようでスローモーションなようで、理解よりも先に把握し考えるより先に体が動く。
この感覚はこういう場に立たない人にはわからないだろう。

審判が止める。相手の直後にはもう子どもが迫っていた。

 

やっていることがやっていることだから、正直泣く子がいるかな?くらいは思っていたけど、皆無だった。

子どもたちにはぐるり一周囲んで座ってもらっていたけど、瞬きをするのも忘れたかのような表情でガン見していた。
ちょっとはねっかえり始めた中学生の男子も、年齢的にわかすぎて1年くらい体験入団していた5歳児も、等しく同じ顔。

そして、ご父兄もまったく同じ表情だった。

普段は壁に寄りかかって座り談笑しているはずなのだが、今は逆に前傾にせり出してガン見。一言も発する人がいない。

「どうぞ、父兄の方も、寄ってご覧ください」

指導者が声をかけると、我が子の近くまでおずおずと寄ってくるご父兄。否定派の方も、もちろんすぐそこに。

親子なんてそっくり同じ顔してるさ!笑

視界に入って吹いてしまったすきに、お返しの高回し蹴りをもらってしまった。

 

少なからず心得のある大人が全力でぶつかり合う光景なんて、誰も見たことはなかったでしょう。

ある程度練度があっても、幾度となく振るわれる拳や足が実際にヒットすることは少ない。
それだけ、攻撃を躱し、抑え、流し、受けているんだ。

我が子が学んでいることは、相手を倒す技術ではなく自分を守る技術だということを、ご理解いただけたのではないでしょうか。

この格闘技の本質は、いかに自分自身と守るべき人が無事であるかというところにある。

 

長かった時間が終わる。計測にして10分足らず。結果は引き分け。
(人は全力全開放では5分も持たない。常時全開放ではなくても10分程度で限界)

静まり返る場。拍手も、感想も、ため息すらない。

その日は、その後も粛々と締めの挨拶まで続き、何事もなかったかのように終えた。

「あちゃー。怖すぎたか!?」

と、床にへばりついて離れない体力のタの字も残っていない体の中で、内心ビクビクしていた。

 

変化はあった。

否定派の人が、子どもに否定的なことを言わなくなった。
今まで談笑していた(主に男の)ご父兄の数名が、大人の部に入団した。
それまで体を動かすために来ていた大人の団員は、それまで嫌がっていたにもかかわらず乱取りをしたがるようになった。
子どもたちの乱取りも、まぁちょっと変わった。相変わらずの猫パンチだけど・苦笑

 

別に否定派の人たちが悪いわけじゃない。
理解し合えなくて当然だ。ひとつ間違えれば、相手を容易に傷つける技術を学ぶのだから。

ただ、実態を見ようともしないで否定する人もいること、指導者側は言葉以外の方法で実態を伝える必要もあることを学んだ。

 

今はその格闘技から離れている。もう戻ることはないでしょう。
それは、その格闘技の母体自体が歪んでしまったから。

 

そうそう、本質について触れておこうと思う。
僕がやっていた格闘技は、基本的に護身術だ。

まず、危険に近づかないこと。
万一危険に遭ってしまったなら、全力で逃げること。
もし危険に捕まってしまったら、全力で抵抗すること。
どうしようもないとき、技術を行使すること。
自分を助ける可能性を持っていることに自信を持つこと。
そして、自分と同様に他の人守ること。
(も、というのが要です。自分を守れなければ誰も守れない。自分が幸せじゃなければ誰にも分けれない。50:50に分かち合いたいなら、まず100得ておかなければならないのです)